パブリックドメインっていまいち楽しめないよな

江戸川乱歩の「一人の芭蕉の問題」、これを読もうとしてかなり序盤で挫折した。
旧漢字は変換サイトでどうにかなったけど、回りくどくて固い言い回し自体と、それの度にちまちま立ち止まるのが辛かった。

 

これは雑誌に掲載された約3700文字のコラムで、青空文庫にて閲覧できる。「才能に富んだ一人がある分野を決定的に成長させる」ということについて書いてあるらしい。そこに辿り着く前に頓挫したから分からんけど。

 

ふと考える。なぜか僕らは暇なとき、無料なのに青空文庫江戸川乱歩を読まない。YouTubeベティ・ブープカートゥーンを観ない。

 

なんでだろう?作品には賞味期限があるのか?その場合何が傷んでいる?

雨垂れが石を穿つように、長い時間が作者との共通認識の糸を少しずつ断絶して、学術的側面のみを残して娯楽的な面が削げ落ちるのか。

(この最たる例が能・狂言だと思う)

 

 

パブリックドメインはなぜかどうも楽しめない。目録から面白そうな手触りを感じない。

それはインターネットアーカイブに載せる作業をした選別者が面白かったものという勝手な選び方ではなく、資料的に価値のあるもの・ある種の必修科目にすべきものという指針で選んでいるからだと感じる。(それもある意味勝手な選び方だけど)

パブリックドメインは毎日どっさり出来るものなので、とても全部は載せられない。どうしても選別は必要。

 

現代人が面白がり方をよく分かっていないもの・忘れてしまったものに対しては、手っ取り早く面白がれるための偏った選別が要るのかもしれない。選別者の趣味に振り切った、俺はこういうものをこう面白がっているぞ!というとっておきのチョイスが。

思えば、偏った選別によって面白さが際立つものは沢山ある。コンピCDとか町の雑貨屋とか。

 

そういうセレクトは、それが的外れでも「自分ならこうする」の原動力になるし、意図が語られていなくてもそれを想像して楽しめる。無機物的な集合に人間という有機的な影がちらりと見えると、それが楽しみの切り口になる。

 

物語は巻き起こるだけでなく、それを上手く語るストーリーテラーが必要なのかもしれない。

語り手、つまり人間の息吹の必要性。ものを楽しみやすくするには人間というフィルターが必要なのかも。それは人の介在しない話でさえ要素を擬人化して楽しみやすくすることからも伺える。


「人に長く楽しまれるものを作るにはどうすればいいんだろう」「それはどんな形をとるんだろう」ということを昔からよく考える。

未来人の憧れになりたい。銀色の全身タイツを着てるような奴の。