古着。それは単に中古の服という意味に非ず。
今はあまり見かけないスタイルの服を入手して着るという時間的チグハグ感。昔は手が出ないはずだった値段の服を若者が来ているという経済的チグハグ感。
今日、「古着」はなんかそういう諸々まで含めて広く使われている言葉だ。「サーフ系」のように物自体に引っ付いた文化様式がある。
ちなみにあれは純粋にスポーツやレジャーとしてサーフィンに興味のある人を遠ざける悪い物だと個人的には思う。イカツくて恐い。
サーフ系はサーフィンの楽しみを陰キャに享受されぬよう守護しているガーディアン。海を愛する男とはつまりそういう意味。
話を古着に戻すが、自分は自分の服の臭いですらイヤなので古着は買わない。
あとそもそも古着屋に入れない。以前名古屋に言ったとき、古着好きの天国と言われるなんとかストリートに見物に行って、通以外お断り風な店に入ってみたときのあの場違い感は今でも鮮明に思い出せる。それで冷や汗も出せる。
しかし買わない買えないからといって、古着文化を学ぶ意義なしと決めつけるのは早計だと突然思った。自分には絵というアウトプット先があるではないか、と。
正直絵描いてるときの服なんて露出を阻害するものだし、細かく折れ曲がるから描きづらいし、さして興味もないしで好きなものではない。
しかし探せばあるのではないか、描きやすい形をした服、楽に情報量や立体感を出せる装飾。
好きじゃないからこそ手抜きでそれっぽくできそうなデザインの法則みたいなのを学んだ方が有意義なのではないか。
そしてそういったものを学ぶために、色んなジャンルの服を広く指す服飾関係の単語として「古着」というのは利用できるのではないかと思い至った。
とにかく「古着」で検索しまくって良さげな服の勉強をする。これから描く絵に反映されていったらいいな。頑張るぞ。